1.なぜ今、メンタルヘルス対策が社会課題なのか
日本の職場におけるメンタルヘルス対策は、個人の問題という枠を超え、社会全体で取り組むべき課題として位置づけられるようになりました。
背景には、長時間労働の常態化、仕事の高度化・複雑化、リモートワークの普及によるコミュニケーションの変化など、働く環境の大きな変化があります。
1980年代後半には「過労死」が社会問題として顕在化し、1990年代以降はうつ病やストレス関連疾患の増加が、医療費の増大や労働力の低下として社会に影響を及ぼしてきました。
こうした流れの中で、メンタルヘルス不調は個人の健康問題であると同時に、企業の生産性や社会の持続性に直結する課題として認識されるようになったのです。
2.国の政策としてのメンタルヘルス対策
―― ストレスチェック制度とは何か
この社会的背景を受け、政府は2014年に労働安全衛生法を改正し、2015年からストレスチェック制度を施行しました。
この制度は、常時50人以上の労働者を雇用する事業場に対し、年1回、全労働者を対象としたストレスチェックの実施を義務付けるものです。
ストレスチェックでは、仕事の量や質、人間関係、職場環境、疲労感や不安感といった主観的なストレス反応を質問票で評価し、高ストレス者の早期把握や、職場環境改善につなげることを目的としています。
制度の導入により、メンタルヘルス対策は「努力目標」から「社会的責務」へと位置づけが変わりました。
3.制度導入後に見えてきた現状と限界
ストレスチェック制度の導入以降、大企業を中心にメンタルヘルス対策は広く普及しました。
一方で、実施率の向上にもかかわらず、「強いストレスを感じている労働者の割合」は50%以上で推移し、精神障害に関する労災認定件数は増加傾向にあります。
また、年1回の調査では、
- 心身状態の短期的な変化を捉えにくい
- 問題が顕在化した時点では対応が遅れる
- 小規模事業場では専門スタッフ不足により十分に活用できない
といった課題も指摘されています。
「制度はあるが、十分に機能していない」という現実が浮かび上がってきました。
厚生労働省は「ストレスチェック制度等のメンタルヘルス対策に関する検討会(座長:川上憲人・東京大学大学院医学系研究科デジタルメンタルヘルス講座特任教授)」を、2015年に義務化されたストレスチェック制度の実施状況や効果を検証し、職場におけるメンタルヘルス不調を未然に防止(一次予防)する仕組みをより強化・拡充することを目的に設置しています。
具体的には、以下の点について見直しや改善策を検討しています。
- 制度の形骸化防止と活用促進: ストレスチェックを「実施するだけ」ではなく、結果を集団分析し、具体的な職場環境改善へ繋げる体制の強化
- 50人未満の小規模事業場への対応: ストレスチェック実施義務の対象外である50人未満の事業場における実施率向上や、支援体制の拡充
- 産業医・専門職との連携: 高ストレス者への面接指導や、産業保健スタッフの関与を強め、より実効性の高いケアを行う体制の構築
- 新たな枠組みの検討: 働き方の変化や新たなメンタルヘルス課題に対応するための制度的な見直し(2024年11月時点の「中間とりまとめ案」)
「面談勧奨率」が極めて低い(見つけても支援につながらない)
高ストレス者のうち実際に産業医面談を受けたのは 5〜10%程度(厚労省調査)
【構造的要因】
- 面談を受けると「評価が下がるのでは」という心理的リスク
- 産業医の人数不足と業務過多
- 面談が業務調整につながらない
- 面談内容が人事に伝わると誤解される
- “ハイリスク者を抽出しても、ほとんど支援につながらない”
4.広がるソリューションと新たな課題
こうした課題を背景に、近年ではストレスチェックに加え、パルスサーベイやエンゲージメント調査、EAPサービスなど、多様なメンタルヘルス関連ソリューションが登場しています。
これらは、より頻繁に従業員の状態を把握できる点で有効ですが、多くは主観的な自己評価に依存しています。
そのため、本人の気づきや回答バイアスの影響を受けやすく、「本当の変化」を見逃す可能性も否定できません。
5.メンタルヘルスを「認知機能」から捉えるという視点
近年、メンタルヘルス対策の新たな切り口として注目されているのが認知機能です。
認知機能とは、集中力、記憶力、思考力、判断力といった、社会生活や業務遂行を支える基盤となる心理的機能を指します。
- 研究からは、メンタルヘルス不調において、
- 不安や抑うつといった情緒的症状が現れる前に
- 集中力や判断力などの認知機能が先に低下する
ことが示されています。
つまり、認知機能の変化は、メンタルヘルス不調の「前兆」として現れる可能性があるのです。
6.回復期にこそ重要となる認知機能
さらに重要なのは回復期です。
うつ症状などの自覚症状が改善しても、認知機能の回復は遅れて起こることが多く、「見かけ上の回復」と「真の回復」にはギャップが生じます。
このギャップを見逃したまま職場復帰を進めると、
- 業務への適応がうまくいかない
- 再休職や離職につながる
といった問題が生じやすくなります。
症状だけでなく、認知機能の状態を把握することが、円滑な社会復帰の鍵になります。
7.認知機能評価がもたらす新しいメンタルヘルス対策
認知機能を客観的に評価することで、
- 発症前の「心の健康の揺らぎ」を捉える
- 主観的評価では見えない変化を可視化する
- 真の回復を判断し、適切な支援につなげる
といったことが可能になります。
これは、従来のストレスチェックやサーベイを否定するものではなく、それらを補完し、次の段階へ進める視点です。
メンタルヘルス対策を「不調者の発見」から、「働く力を守り、育てる取り組み」へと進化させるアプローチと言えるでしょう。
8.認知機能と社会生活をつなぐために
メンタルヘルス不調は、症状そのものよりも、仕事や社会生活における機能低下として現れます。
その中心にあるのが認知機能です。
認知機能という客観的な指標を通じて心の健康を捉えることは、
- 個人にとっては「自分を理解する手がかり」
- 組織にとっては「生産性と持続性を守る基盤」
となります。
これからのメンタルヘルス対策は、認知機能という視点を組み込むことで、より実効性の高い社会的取り組みへと進化していくことが期待されています。
